立教高等学校寄宿寮閉寮礼拝 2009年9月12日・立教学院聖パウロ礼拝堂
1960年(昭和35年)4月14日、開寮礼拝兼入寮式が寮の食堂に於いて行なわれました。
縣康校長をはじめ寮関係教職員8名、入寮生95名が出席していました。先ほど読んでいただいた聖書(コロサイの信徒への手紙第2章6〜10節)は当日朗読された個所です。人の世の知恵や世の流れに支配されずに、キリストに結ばれキリストに支配される生活の場として、寄宿寮の誕生が宣言されたのでした。
祈りと感謝を大切にする生活、神の愛に育まれ友情を深める生活、共に励まし合い共に叱咤し合いつつ人間性と自主性を高める生活、二度と戻らない青春時代を勉学にスポーツに精進する生活が、この寮で営まれることが期待されて、立教高等学校寄宿寮はスタートしました。
その後、西寮、和寮の増築で3寮体制になり、288名収容にまで発展しましたが、諸般の事情によって、1988年11月に和寮が、翌89年9月に西寮が聖別解除・解体の止む無きに至りました。そして、所期の目的を達成しつつ30年続いた寮は、1990年1月31日、第30回生の卒寮式をもって休寮に入りました。その後、長く休寮状態が続いていましたが、この度学校当局の決断により最後まで残っていた東寮の解体が決まり、寮は幕を閉じることになります。
昔のことを少し振り返りたいと思います。
立教高校が池袋から新座に移転したのは1960年です。当時の校長・縣康先生は予てより旧制高等学校のような寮生活が若い人には必要だという信念を持っておられました。新座移転を機に、寮の設立を思い立たれたのです。英国のパブリックスクールや日本の旧制高校の寮をモデルに考えておられたようです。そして、当時のチャプレン宅間信基先生にアメリカ聖公会の全寮制学校の視察をさせ、立教高校に相応しい寮の構想を描いておられました。私が大学を出て立教高校に就職したのは新座移転の前の年1959年で、既に寮が出来ることは決まっていました。私と同期の大宮司先生は日本体育大学で学生寮の委員長の経験があり、私はキリスト教活動の経験があるということで、2人は創設される寮に住み込む副寮長に決まっていましたが、肝心要の寮長が未定でした。やがて30代の若手寮長・前村行雄先生の就任が決まりました。それから開寮までの半年は宅間チャプレン、前村寮長と共に準備に精力を注ぎました。先ずは日課を作ることから始まり、「寮生心得」、「運営管理規定」の作成、毎日の生活を支える働き手の人選、開寮に至るまでのスケジュール、それに沿って実務の処理、各種印刷物の作成、等々、際限がない程の繁多な毎日でした。時間だけは速く過ぎていき、やがて年が明け学校の引っ越しという大事業が秒読みになりました。ところが建物の完成が遅れ、開寮は予定よりも1週間も遅れることになりました。いざ寮生活がスタートすると、毎日が修学旅行みたいに賑やかで時間に追われ、1週間があっと言う間に過ぎていきます。外出外泊を楽しみにしていた寮生諸君と同じように私にとっても気分切り替えのために週末が貴重でした。日曜日の晩に帰寮してくる寮生諸君を迎えて、また1週間の戦闘開始、そんな緊張した気持ちで一学期が無事に終わると、寮内の未完成部分の工事のため全ての荷物を本館の音楽室に移動して、寮内を空にしました。最初の寮生だけが体験した苦労談です。
こんな話をしていると切りがありませんので、話を移します。
本来ならば寄宿寮閉寮ということを、真っ先にご報告しなければならない方が4人いらっしゃいます。残念ながら今は亡き方々ですが、寮にとって決して忘れてはならない先生方です。皆さんとご一緒に偲びたいと思います。
その第1は、もちろん寮の生みの親、縣先生です。冒頭で話したように、先生は若者に良い教育をするには寮が必要だという信念をもって、全国から有為な生徒を集められました。先生のお考えは当時の父母の方々に共感を呼び、賛同者が大勢いらっしゃったと聞き及んでいます。開寮後も寮を温かく見守り、寮生諸君により良き生活環境を与えることに尽くされました。寮にとって最も大切なお方でした。
お2人目は、宅間チャプレンです。縣校長の良き相談相手としてキリスト教学校の寮はかくあるべし、という基本を進言してくださいました。開寮後は寮に直接に関わることはありませんでしたが、毎週寮にお出でになり、有志のための聖書研究会を開いたりして、開寮直後の寮を精神的に支えてくださいました。
3人目は、初代寮監・前村先生です。学校として初めて行う大事業の責任者を立派に務められました。寮の基礎固めの時代を8年間、陣頭指揮なさいました。私にとっては公私にわたってご指導いただいたかけがえのない先輩でした。先生は残念なことに1983年9月に50代半ばという若さで亡くなられました。葬儀はこのチャペルで行われました。先生を慕う多くの卒業生と一緒にここで先生をお見送りしました。葬儀後、ご遺族からチャペルに献金が捧げられ、それをもってチャペル後方のピエタのレリーフを寮7回生の彫刻家・三坂制君に創ってもらいました。
もうおひと方は、2代目寮監の則武明之先生です。前村先生からバトンを受けられた時、則武先生は既に還暦を迎えておられました。そのお年で寮監として若手教員と同じように週に2、3回寮に泊まられ、紺のジャージーを身に着けて、朝の礼拝・体操からコンプリンまで、寮生と一緒に過ごされました。実は、私は高校2年生の時、則武先生のクラスでした。ホームルームの時間は生徒手帳に載っていた使徒信経を全員で唱えるのが常でした。ですから、則武先生は熱心なクリスチャンだと私は思っていました。皆さんはご存じないと思いますが、先生は寮監を引き受けられる時、キリスト教の寮の責任者なのだから自分は洗礼を受けると決心されて職務に就かれたのです。以上の4人の先生方に心からなる感謝を捧げます。他にも、栄養士さん、寮母さん、事務職員、賄いやお掃除、ボイラーマンの方々、お顔が浮かびます。寮を支えてくださり有難うございました。
寮創立後11年目の1971年、縣康校長が定年ご退職になりました。寮OB会は寮の創設者・縣先生に感謝し、先生をお送りするために「寮創立10周年記念OB会」を計画し、チャペルで感謝礼拝と記念パーティーが行われました。その年、「立教高等学校寄宿寮創立十年誌」が出版されました。私は今回これを読み返してきました。初期の寮の歴史が、そして寮生活そのものが忠実に綴られた良い記念誌です。その後1999年に発行された「立教高等学校50年誌」には鈴木武次先生が寮に関する多くの貴重な資料を記載してくださいました。ここにも寮の歴史と存在意義が残されていますが、寮はここに生活した人、ここに関わった人、ここに息子を送り出した親御さんたちの心の中に、いつまでも存在し続けると信じます。建物としての寮は、これですべて無くなり寂しい気もしますが、寮は建物ではありません。寮を巣立っていった卒業生の皆さんの中に寮は永遠に存在し続けます。寮生活を経験した皆さんは寮から多くのものを学び、良き友を得たと私は確信します。そして、皆さんは寮生活で身に着けたものを、その後の家庭生活の中に社会生活の中に実践し還元してこられた、いや、いまだにそうし続けておられるのではないでしょうか。そのことこそが寮の果たした役割だったと思います。立教高校から寮はなくなっても、皆さんの中に寮をいつまでも生き続けさせていただきたいと願っています。寄宿寮特祷で毎日唱えた「神と国とのために良き働きをなす者」であり続けてください。立教高校の歴史に、寮があったという事実、寮が大きな教育成果を上げたという事実は決して消えることはありません。
最後に、私自身、寮を担当させていただき、多くを学ばせてもらいました。新米教師の私を育ててくれたのは寮でした。寮での経験なしには私のその後の教員生活はなかったと思っています。私に寮に関わる恵みを与えてくださった神さまに心から感謝申し上げ、話を終わります。
有難うございました。